詩篇51篇

指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。

51:1 神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。

 ダビデは、罪を指摘されたことに対して、罪からの清めを神の前に願っています。「背きを拭い去る」ことは、すでに背いた事実の赦しを求めているのではありません。その罪は、すでに主によって見過ごされました。

・「あわれむ」→懇願する、(主が)求めに対し喜んで答えること。このことは、御言葉に根拠がある。契約の条項です。ここでは、「あわれむ」は、「恵み」に従ってなされること。すなわち、契約の履行という応答の中で示される神様の行為で、求めることに対して応答すること。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

・「あわれみ」→原意は、「胎」です。胎児を大事にすることが意味されていて、発展して「あわれみあるいは同情」として訳されている。しかし、調べたところでは、聖書での使用は、原意に近い意味で使われていて、「大切なものとする」という意味で使われています。

サムエル第二

12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。

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 処罰は終わっているのです。ですから、この背きを拭い去ることは、同様な背きを繰り返すことがないように求めています。

 呼びかけは、「神」に対してです。罪からの清めに関して支配者である方に求めています。支配者にふさわしい者に変えられることを願いました。

 まず求めたことは、「契約を忠誠をもって果たすということで(契約忠誠に従って)、求める者に喜んで応えてください。」ということです。彼は、罪を犯しましたが、それを認め、悔い改め、神の前に清められることを求めたのです。そのように悔い改める者を清めてくださることは、神様の契約です。それに基づいて喜んでそれをしてくださいと願ったのです。

 そして、彼の罪を清めることに関しては、神が彼を大事なものとしてそのことをしてくださいと願っています。

 彼の祈りは、非常に大胆です。人が神の前に罪を犯した時、神の前にお願いをすること自体おこがましいように感じてしまうかもしれませんが、私たちは、このように大胆に祈ることができます。それが神様のやり方であるからです。私たちがどのような者であれ、契約に従って事をなされるのです。

51:2 私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。

 彼が求めたことは、咎を洗い去ることです。罪や咎は、それが犯された時点で完結し、その行為に対して罪が裁かれます。それは、罪の赦しであったり、処罰であったりします。彼は、すでに犯した罪については主から見逃されました。ですから処罰は終わっています。その上で、咎をすっかり洗い流すことは、同様な咎を犯すことがないようにという意味です。罪から清めることもそうです。同様の罪を犯すような歩みをしないように求めています。

51:3 まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。

51:4 私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するときあなたは正しくさばくときあなたは清くあられます。

51:5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。

 彼がここで数えている背きや罪は、五節の言葉から、彼が生まれて今に至るまでの罪、咎のことです。背きや罪は、実際に行われなければ罪とはされません。罪を犯す可能性については、罪とされません。私たちには内住の罪がありますが、それ自体は、罪とされません。罪を犯した時、罪とされます。

 彼が数えているのは、今まで犯した背きや罪です。彼は、それを忘れてはいませんでした。その罪について宣告する時、また、正しく裁く時、それをなさる神は、清く正しいのです。ですから、彼は、自分の罪をよく認め、神が裁くのはふさわしいと認めているのです。

 彼は、咎のうちに生まれ、母は、罪のうちに身ごもりました。生まれたときから内住の罪が働く者として生まれ出たのです。なお、体内にある時に罪を犯すことはあり得ません。

51:6 (御覧ください。)確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。

 御覧くださいという呼びかけが続くことで、この節は、前節と関連があります。内住の罪を持つ者として生まれたが、神は、そのような人の内側に喜ばれるものを望んでおられます。

 まず、心の内の「真理」です。彼は、行いとして罪を犯しました。しかし、神は、その人の内面に真理を信じて受け入れているかどうかをご覧になられます。そこに神の言葉が宿ることを望んでおられます。

 次に、心の奥すなわち閉ざされたところに知恵を教えてくださることです。知恵は、神の言葉に従う分別です。

 ここには、神の言葉を受け入れる分別、これは英知と、神の言葉に従う分別としての知恵が取り上げられています。

51:7 ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。

 ヒソプは、赤い雌牛を焼いて作られる灰を溶いた水で、人を清めるために使われます。

民数記

19:9 それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。

19:18 きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、すべての器の上に、そこにいた者の上に、また骨、刺し殺された者、死人、墓に触れた者の上にかける。

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 そして、この清めは、死人に触れて汚れた者に振りかけられて清める働きをしますが、それは、本質的な罪ではなく、死んだ者と交わることによって健全な歩みが汚されることを比喩として示しています。

 ですから、ヒソプで清めることは、犯した罪を赦すことではなく、歩みが清められることです。

 洗うことは、歩みを清めることです。そうすれば、歩みが清くなって、雪よりも白くなるのです。

51:8 楽しみと喜びの声を聞かせてください。そうすればあなたが砕かれた骨が喜びます。

 喜びを聞かせてくださり、喜び楽しませてくださることを願いました。これは、十二節に言い表されているように、救いの喜びです。彼自身に与えられる祝福を喜ぶことです。

 主がそうされるならば、彼の骨が喜びます。骨は、その人自身が持つ教えです。彼の骨が砕かれたのは、自分が良いとしていた彼の考えが、誤りであることが明確に示されたことです。彼の骨は砕かれたのです。この骨の「喜び」は、主を喜ぶような霊的な喜びのことです。十二節後半には、「仕えることを喜ぶ霊」とあり、主を喜びとして仕える霊の喜びです。霊は、御言葉を受け入れる座です。彼は、御言葉を正しく受け入れることで、彼の骨すなわち彼の持つ教えは正しくなります。その時、骨は喜ぶのです。言い換えるならば、そのように教えらたことを霊が喜ぶのです。

・「楽しみと喜びの声を聞かせてください」→喜びを聞かせ、喜び楽しませて下さい。

51:9 御顔を私の罪から隠し私の咎をすべてぬぐい去ってください。

 また、彼の罪を責めるために御顔を向けられることがないように願いました。主がそうされるならば、責め続けられなければならないのです。

 また、咎を犯すことがないようにしてくださることを願いました。

51:10 神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。

 清い心は、混じりけない心のことです。異なる考えによって汚れていない心です。

 揺るがない霊は、霊が御言葉を受け入れる部分のことですから、間違った教えを受け入れることなく、すでに受けている御言葉を守ることです。それを、彼の内に新しくすることです。一度は、彼の肉によって、受け入れたものを否定してしまったのです。

51:11 私をあなたの御前から投げ捨てずあなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。

 そして、御前から投げ捨てないように願いました。主にとって役に立たないものとして捨てることがないようにと。

 そのことは、聖なる御霊を取り上げないようにという願いと関係しています。彼は、聖霊によって啓示を受け、多くの詩を記し、預言し、宮の設計を示されました。レビ人の奉仕についても示されました。神様は、聖霊を通して、ダビデを豊かに用いたのです。その働きを取り上げることがないように願いました。

51:12 あなたの救いの喜びを私に戻し仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。

 救いの喜びは、主に仕えることと関係しています。主に仕えることに対して、主は御国で豊かに報いてくださいます。これが救いです。主の御心に適って仕えることに対して報いを望み、喜ぶことができます。

 仕えることを喜ぶ霊は、主に仕えるところに真の喜びがあることを知る霊のことです。そのように教えられている霊は、その人の歩みを支えます。

51:13 私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。

 彼が主に仕えることの具体的なことの一つは、彼が清められた時に、背く者たちに神の道を教えることです。それによって罪人たちは神のもとに帰ってきます。彼は、神の聖霊を受けている者として、教えを取り次ぐ聖なる務めがあることを自覚していました。

 これは、非常に大胆な言い表しです。しかし、彼が回復したならば、それが彼の務めです。

 ただし、彼が証しを大いに損なったことは、否定できません。彼は、姦淫を犯し、しかも、それを隠すために、忠実な、信仰者として立派な家来を殺したのです。彼は、人の目からそれを隠そうとしました。しかし、神にその罪を赦されても、人々に対する証しは損なわれたのです。証しは、人の信頼の回復ということが伴いますので、時間がかかります。また、彼のしたことは、彼の家族に深い影響を与え、家族の間には、同様の問題が起こることになります。彼は、そのような罪について言葉で戒めることはできても、力がありませんでした。

51:14 神よ私の救いの神よ血の罪から私を救い出してください。私の舌はあなたの義を高らかに歌います。

 彼は、血の罪から救い出されることを願いました。神は、救いの神であり、それを実現することができる方です。救いは、罪の赦しのことではなく、血の罪を犯すようなことがないことです。策略によって人を陥れるようなことをしないようにすることが救いです。

 彼は、義を喜ぶ者として、神の義を高らかに歌うのです。彼が正しい者となった時初めて、彼は、神の義を歌うことができます。彼は、義を喜んでいることを表明し、二度とそのような罪を犯さないように願いました。

51:15 主よ私の唇を開いてください。私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。

 そして、彼が主の誉れを告げ知らせることができるようにしてくださることを願いました。唇を開いてくださいと言いましたが、主がその栄光を見せてくださることで、彼の唇は開かれ、誉れを告げるのです。彼が、主の栄光を褒め称えることができるのにふさわしい状態にしてくださることも意図されています。それは、罪から清められることです。

 この願いは、主に向けられました。

51:16 まことに私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。

51:17 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。

 彼は、主が砕かれた霊、砕かれた心を受け入れられることを知っていました。自分が内住の罪を持つ者であり、また、肉が働くのです。そこから清められることを願ったのです。そして、神の正しい教えの中に生きることを願いました。それが、砕かれた霊です。自分の誤った考えによるのではなく、神の真理を受け入れ、それに従って生きることです。そのような砕かれた霊を神は蔑まれません。受け入れられて、もう一度正しい道に導いてくださるのです。

 神の言葉に従うことこそ神の求めているところです。その言葉の前に謙り、神を恐れて従うのです。それは、行いとしていけにえを捧げるという行為では、穴埋めできないことです。表面的な行いで仕えたとしても、神は喜ばれません。

 私たちは、自分が罪を犯した時、何か良い行いをすることで神の前に回復されると考えてはいけません。神の言葉に従うことが求められているのです。 

51:18 どうかご恩寵によりシオンにいつくしみを施しエルサレムの城壁を築き直してください。

 彼が求めたことは、エルサレムの城壁を築き直すことです。彼の罪とエルサレムの城壁は、直接には関係ないことです。このエルサレムの城壁は、比喩になっています。ダビデは、個人的な回復を願いつつ、王としての彼が犯した罪の影響について考えていました。彼の罪は、イスラエル全体に対して、災いをもたらす可能性があります。城壁の築き直しは、彼の罪の影響の排除を意味しています。彼の罪の故に、エルサレムの守りが取り除かれることから回復することを願っています。

 そのことを願ったのは、彼の罪が、神の都であるエルサレムの証しに関わっているからです。

・「ご恩寵」→神の恵みやいつくしみ。

51:19 そのときあなたは義のいけにえを焼き尽くされる全焼のささげ物を喜ばれます。そのとき雄牛があなたの祭壇に献げられます。

 その時、主は、捧げ物を喜ばれます。義のいけにえは、主の前に正しく歩むことです。全焼のいけにえは、主に完全に受け入れられるものとして自分を捧げることを表しています。主は、それを喜ばれるでしょうと。

 その時、雄牛が捧げられるでしょうと。雄牛は、しもべを表しています。主の御心を行う者として自分を捧げることを表しています。

 彼が義の歩みをし、自分を全て捧げる者となり、再びしもべとして仕えることを願いました。